禅語とは?一覧や読み方と意味が知りたいけど座右の銘にしてもいい?

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座禅修行言葉の不思議
禅語の意味や教えを聞くと心が洗われた気がします。たくさんの禅語を知ることで、あなたが生きやすくなるヒントがあるかもしれません。
禅語とは、簡単に言うと禅(ぜん)のことばなんです。禅(ぜん)という言葉を耳にしたことのある人も多いと思います。例えば「座禅」と言う言葉は良く耳にしますね。
座禅(坐禅とも書きます)と言えばお寺などで座布団にあぐらをかいて精神統一をして動いたら後ろからお坊さんが「ピシャッ」と平たい板で肩を叩かれるイメージを思い出しますね。
その「禅」という言葉は、仏教における言葉で「禅定(ぜんじょう)」の略なのです。

 

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座禅や禅語を勉強しよう!どんなのがある?

私が小学生の頃に「巨人の星」の漫画で、星飛雄馬がお寺で座禅を組んで修行していたのを見て初めて座禅ってことばを知りました。

一般的に坐禅(座禅と書く場合が多いです)を組むとときは座布団にあぐらをかきます。「巨人の星」では板張りの上であぐらをかいてたような記憶があります。そして目をつぶり姿勢をピンと正した状態で行われます。座ったまま長時間精神統一をしてジッとする修行法です。
ちょっと動くと後ろからお坊さんがピシャっと肩を棒で叩かれていました。

座禅修行

座禅修行

座禅のあぐらの仕方

座禅のあぐらは私達が普段の生活でつかっている「あぐら」とは違います。
座り方はあぐらに似ていますが、右足のかかとを左足の太ももの上に、左足のかかとを右足の太ももの上に乗せます。そして、お尻と両膝の3点で座るイメージを描きます。
このあぐらの仕方を「結跏趺坐(けっかふざ)」と言います。

調べてみると宗派によってあぐらをかく身体の向きが異なるそうです。壁を背中にしたり壁に向かってかくのがどうやら一般的みたいです。
この座禅とは一体何のために行うのでしょう。

ヨガのポーズと一緒なんですね。

座禅の座り方

座禅の座り方

坐禅を行う時の心についても宗派によって違います。教えを受け継ぐ「看話禅」や無心に坐禅をすることを重視したり、念仏を唱えながら行う宗派もあります。

基本は「座禅を組む」ことで、ひとつのことに心を注ぐことを意味することは変わりません。ある種の精神統一ですね。
何かを考えるというよりも、座って自分自身と向き合うのが大事です。星飛雄馬の大リーグボール1号(2号だったかな?)もここから生まれたと記憶しています。

 

禅や禅語とは何?

禅とは何かを知り、その教えを理解し、行うことです。しかしながら到底たやすいことではありません。
私たちが生きる上で大切なヒントえお禅は与えてくれると言われてます。
禅語は禅の教えや悟りの境地が短い語句に凝縮された言葉なのです。

なぜ座禅をするのか?

禅語は、仏教の宗派の1つ禅宗で語り継がれる名言が由来です。
禅(Zen)とは、「心が動揺することのなくなった状態」の禅定の略語で座禅そのものではないようです。
座禅は、禅定になるための瞑想の方法でこちらも禅(Zen)と略されています。
現代的な意味では、座禅を禅(Zen)と表現しており、海外の有名人も禅(Zen)に取り組んでいる方もおり、世界的に知られている教えです。
そもそも、なぜ禅宗では座禅に取り組むのでしょうか?
座禅は、仏教の発祥当初から取り組まれていた瞑想法でインド出身の達磨大師が中国へ座禅を
広めたことで、「座禅を基本的な修行方法とする宗派」が禅宗と呼ばれるようになりました。
日本国内には、鎌倉時代に中国から禅宗が伝わり、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗が設立されていま
す。

禅語が生まれた禅宗の教え

禅宗の教えでは、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)と呼ばれ付「全ての生き物や自然環境が仏性を持つ」教えが共通しています。
これは、全ての存在は苦しみを乗り越え仏のような存在になる可能性があるという教えです。
さらに、農作業、料理、掃除と洗濯などの家事を「作務(さむ)」と呼び大切な修行としています。
禅語が生まれた背景には、他の生き物の暮らしや自然の様子を観察して苦しみを乗り越えるヒ
ントを見つけること、普段の家事の中で修行につながる共通点を見つける日々が積み重なり、聞
く人が「はっ!」となる禅語が生まれました。

座禅は禅宗だけではない

また、座禅そのものは禅宗のみで行われているものではありません。
特に日本国内では、感情を静め集中力を高める練習として、宗派を問わず座禅が取り組まれて
います。

座右の銘にしてもいいの?

好きなものだけでもいいので、自分の胸の中にとどめておくといいですね。しかしどのような意味があるのか、あまり知られていないかもしれません。例えば「明鏡止水」を座右の銘にするならば、意味を知らなければ聞かれた時に困る事でしょう。
座右の銘については特に決まりはありませんので、意味が分かればもちろん座右の銘にしても構いません。
※座右の銘とは、「常に自分の心にとどめておき、戒めや励ましとする言葉」の意味で「ざゆうのめい」と呼びます。

座右の銘にもできる禅語を紹介

そもそも禅とは、どんな歴史をたどってきたのでしょうか?
そして、禅を支え、今に伝えた人物も深くかかわってきます。
ここでは禅の言葉を紹介し、大きな流れをひもといてみることにいたしましょう。

時時勤払拭(じじつにつとめてふっしきせよ)

禅語は読み方も難しいですが、修行の過程で、言葉では表現できない何かを会得し、釈迦の教えを学び取るのです。

心を曇らせる塵や埃、悩みの欲望。塵も積もれば山となります。
心の中も身の回りも、小さな汚れは、一瞬で簡単に落とすことができますが、後回しにしておくとどんどん溜まって汚れていく一方。毎日こまめに払ったり、拭いたりして、常に美しくありたいですね。

 

柔硬心(にゅうなんしん)

文字通り、柔らかい心のことです。
固定概念にとらわれない自由な心を持つことができれば広い視野で物事をみることができ、今まで見落としていたことに気づくこともできます。
自分の考えが正しいと思い込んだり、他人に自分の価値観を押し付けたり、その他人に意見に流されることもなく、「こんな考えもあるんだ」とただ、思えるしなやかな心。心地よくこの世を生きるためには、やわらかい心が大切なのでしょう。

日日是好日 (これにちこれこうにち)

「毎日がすばらしい一日」という意味の禅語です。
雨が降ったり、嫌なことや悲しいことがあってもそれをどう受け止めるかは私たちの心次第なのです。
毎日を「好日」と感じるのは、私たち自身なのです。このように、一日一日を大切に生きることができれば、とても素敵な毎日になれそうですね。

自灯明

自灯明は、じとうみょう、と読みます。
禅語には、人生をどう生きるかを考える上で大切にしたいものがたくさんあります。
自灯明(じとうみょう)もそのひとつなのです。
自灯明とは何でしょうか。

自灯明は、ブッダが臨終の際、弟子たちに残した遺言なのです。
「自分を拠り所に、自分で光って、その明かりで道を開きなさい」という思いが込められています。

先日お亡くなりになられた瀬戸内寂聴さんは、この自灯明について、「一人ひとりが、いま自分がいる場所で精一杯努力を尽くして光輝けば、世の中全体が明るく幸せになるという意味です」「一人ひとりが輝くのはもちろん大切ですが、社会全体も明るく、幸せになるという指摘は、自灯明という禅語の重みを示しています。」と書かれてます。

そして本の中で瀬戸内さんは特に「定年後にこそこの言葉に拠った生き方をするように」すすめていることに50代のかたは興味が湧いてくるのではないのでしょうか。

 

随所に主と作(な)れば、立処皆真(りっしょみなしん)なり

これは「臨済録(りんざいろく)」の中にある禅語なのです。
自分の置かれた場所で一生懸命努力すれば、そこに真の生き甲斐が見出せるという意味なんです。

「どこでも自分の置かれた場所で一生懸命努力しましょう。そうすればそこに真の生きがいを見いだせることができますよと」いう教えなのです。
瀬戸内静寂さんは、病気になったら、病気のなかで一生懸命生きるしかない。ほんとうの生命の輝きを発見できるまでやってみる。もしだめでパンクすれば、それまでの寿命だと思えばいいのです。と教えの中で語られたいます。

任運騰騰(にんぬんとうとう)

「過去を追うな。未来を願うな。今日一日を精一杯生きろ」と言う意味です。インドの原始経典「中部経典」の教えにあります。

真玉泥中異(しんぎょくでいちゅうにいなり)

意味は「あなたの輝きもその才能も本物なら、泥にまみれたって曇らないから、染まることなど心配しない」ってことです。
日々の生活の中で苦しい時もありますが、悪いことには染まらないで自分らしく生きたいものです。

色即是空(しきそくぜくう)

最後に有名な色即是空(しきそくぜくう)です。
般若心経のなかに「色即是空(しきそくぜくう)」という言葉がでてきます。たとえ意味は知らなくても、「色即是空」という言葉自体は耳にしたことがあるという方も少なくないのではないでしょうか。
よく掛軸や色紙などの書いてある言葉だったりします。意味はと言うと、色即是空とは、仏教の言葉で、現世にあるあらゆる物事や現象には、すべて実体はなく、空無であるという意味です。

色即是空とは、「あらゆるものは空である」といった意味の言葉であります。
「この世のものすべてには実体がなく、同時に、その実体のないものが縁によって、私たちの目に見える存在になっている」という意味なのです。

また、色は刻々と変化します。そこに存在があるように見えて、次ぎの瞬間には変わってしまうような存在であるからこそ、空であるとしたのです。
その空もさまざまな縁があるから存在が見えるのだから、大切に毎日を過ごすべきという教えです。

縁起(えんぎ)

縁起は、一般的には「縁起が悪い」「縁起をかつぐ」のように人智の及ばない不思議な力を意味し
ています。
本来の仏教用語、禅語では反対にとても理論的な意味合いがあります。

縁起は「物事が起こる原因」とされ、原因の中でも間接的な原因を指し示しています。
仏教では、物事が起こる原因を2つに分け、直接の原因を「因」影響を与えた間接的な原因を
「縁」としています。

野球の試合に例えるなら、ある高校野球チームが打線の得点力で優勝したとします

野球解説の方によると、打線の得点力には、選手の技術はバッティング練習で培われ、ケガ人を
出さないために基礎練習を欠かさす適切な休養日を設けていたことが要因とされました。
これらは、直接の原因を「因」に当たりますよね。

一方、選手は学校行事に積極的に参加しており、同級生からの応援は競り合いになる試合では
心の支えになっていました。
学校行事に積極的に参加していたことで、周りにも慕われ、同級生も気持ちのこもった応援をし
てくれたのでしょう。
こちらが、良い影響を与えた間接的な原因の「縁」に当たります。

どんな縁がどんな結果につながるかは、どれほど打算的に計画を立てても定かではありません。
良い縁が生まれるポイントは、いい行いの継続にあるのかもしれませんね。

慈愛(じあい)

恋と愛が違うように、愛の中でも慈愛には特別な意味があります。

禅語では、慈愛は相手のためを想った「見返りのない愛」とされています。

私たちは、どんなに相手のためを想って行動しても、「自分も愛されたい」という見返りが心のどこかに潜んでるものです。

愛情表現が返ってこなくても、大切にされなくても、相手を大切に想いやることが慈愛に当たり
す。

だからといって、拒絶されているのに愛し続けることも自己満足の渇愛とされ、控えなければなら
ないといわれています。
とても、難しいことですよね。

中道(ちゅうどう)

禅語の中道は、「快楽にも苦しみにも偏らない道」という意味があります。

道というと、人生そのものと受け取ってしまいますよね。

これは、生き方や考え方として捉えることもできます。
「偏らない道」を「偏らない生き方」「偏らない考え方」と置き換えるなら、少しずつですが実践できそうに思えます。

例えば、休日も休まず仕事を熱心にこなして高収入を得て、良い暮らし(快楽)を得たとしましょ
う。
もし、高収入が得られなくなると、日々の暮らしもままならなくなり苦しみが生まれることになります。

また、自分の暮らしは置いておいて、無償でボランティアに尽くしたとしましょう。
衣食住が得られない状態では、落ち着いてボランティアを行うこともできないはずです。

このような極端な判断を見直しどちらにも偏らないバランスの良い生き方や考え方を意識する
ことが、快楽に酔うことも、苦しみに悶えることもないことは明らかですよね。

遊び過ぎもほどほどに、仕事や勉強のし好きもまたほどほどにしてバランスの良い暮らしを心が
けたいものですね。

まとめ

禅語の読み方や意味は難しいですよね。
難しい言葉に秘められた意味や教えを知ると、心が洗われた気がします。
たくさんの禅語を知ることで、私たちが生きやすくなるヒントがあるかもしれません。
禅語は、禅宗をはじめとしたお坊さんや修行者の方が実践してきた実績があります。
物事の原因を考え、解決法を見つけ、より身近な出来事に置き換えて現代まで残っている確か
な情報です。
暮らしの中で積み上げた確かな方法は、人の苦しみを軽くしてもらえる言葉でもあるのです。

 

 

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