オリンピックの開会式の入場シーンで国名を書いたアニメ風吹き出しについて考えて見ました。海外のマンガで思い浮かべるのは、スパイダーマン、スーパーマン、マーベル、アイアンマンにバットマン等のいわゆる正義 VS 悪、ヒーローものが多いような気がします。
日本の漫画は、独特な絵のタッチ、真ん中から外側へ線を入れたフラッシュ効果や、漫画言葉で現した表現効果、ストーリーのものが多く、海外でも人気があるのは知っていました。
もしかして、アニメ風吹き出しの歴史は日本なのか?という素朴な疑問です。そこで頼りになるのがWikipediaですね。いつから使われているのかを含めて調べてみました。
漫画の吹き出しは日本発祥の地なのか?
日本の吹き出しの歴史
漫画に使われているフキダシは、どうやら江戸時代にも使われていた例があるようです。
安永4年(1775年)に発行された、江戸鱗形屋孫兵衛という人の『金々先生栄花夢』という黄表紙で、夢を見る場面に用いられています。この江戸時代のフキダシが現代の漫画に直接繋がっているというわけではありません。
引用元:「日本の漫画の歴史」 Wikipediaの記事https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%BC%AB%E7%94%BB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
海外での吹き出しの歴史
アメリカでは19世紀末頃には既に現在の形とほぼ同様のフキダシが使われていました。
引用元:コミック・ストリップ Wikipediaの記事英語 - Wikipedia
吹き出しのルーツはどちら
Wikipediaの記事を参考に調べてみると漫画自体は元々日本にあったようです。
明治期に日本に輸入された「cartoon」と「comic」に「漫画」という訳語が用いられていました。
「漫画」という言葉が現在の意味で用いられるようになったのはcomicが入ってきた1895年頃からです。現代の漫画のフキダシの起源のルーツは輸入されたことにあるようです。
「日本の漫画の歴史」の記述によると、そのフキダシが日本の漫画の表現手法として定着したのは、「1923年に執筆された織田小星作・樺島勝一画の『正チャンの冒険』や、麻生豊の『ノンキナトウサン』以降から、現代の漫画に通じるコマ割りやフキダシといった表現手法が定着し始める。」との事です。
引用元:Wikipedia
日本最古の漫画
12~13世紀頃の『鳥獣人物戯画』(『鳥獣戯画』)「日本最古の漫画」とも言われています。
文字が書かれているわけではありませんが、擬人化された動物の口から、声を出しているような線や描写があります。『
鳥獣人物戯画には、動きをいくつもの平行線で表している「効果線」など、現代の漫画に繋がる表現手法と使われています。
目に見えない声の表現方法はフキダシに通ずるものがありますね。
引用元:Wikipedia「鳥獣人物戯画」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%8D%A3%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%88%AF%E7%94%BB
言語と認識にまつわる素朴な疑問の話
「ことばについてのおもしろい話」と聞くと、どのようなことを思い浮かべられるでしょうか?まずは日本語、次に開催されているオリンピックで各国共通している英語ですかね?
それとも赤ちゃんはどうやって言語を理解するようになるのか、動物にも言語はあるのか等々でしょうか。
次はマンガではなくて、おもしろさを持っていることばについて、話を進めていきたいと思います。
ことばとはそもそも何なのでしょう?
「ことばは認識(ものの見方)を反映する」という前提に立ち、私たちが母語とする日本語についての素朴な疑問についてのお話です。
ひとまず、辞書に尋ねてみましょう。
『広辞苑』(第七版)に載せられている定義を紹介します。ことば【言葉・詞・辞】
「ある意味を表すために、口で言ったり字に書いたりするもの。語、言語。」
また似た意味の表現として、「言語」というものもあります。げんご【言語】
「人間が音声・文字・手指動作などを用いて事態(思想・感情・意志など)を伝達するために用いる記号体系。また、それを用いる行為。ことば。」引用元:『広辞苑』(第七版)
ここで注目したいのは、「意味を表すために」や「伝達するために」という文言です。
これらの表現を見ると、「ことば」また「言語」がコミュニケーションの道具として定義されているという印象を受けます。
ことばは、自分以外の誰かに何かを伝えるための道具と見なされている、ということです。
英語はコミュニケーション
日本で開催されているオリンピックでも当然のことながら共通語の英語が主体ですね。
もちろんコミュニケーションは、ことばが果たす重要な役割の一つです。
しかしここでは、別の側面に注目したいと思います。
分かりやすい表現に言い換えるならば、「ものの見方」となるでしょうか。
このことを確認するために、「半分のワイン」の話を紹介します。
半分のワインボトル
皆さんの目の前に、ワインボトルがあるとします。
750ミリリットルのボトルに、ワインがちょうど半分の375ミリリットル入っていると仮定しましょう。
この状況を、皆さんならどのように表現するでしょうか。
①もっとも平易な言い方としては、「ボトルにワインが半分入っている」というものが考えられるでしょう。
②他には、「ボトルにワインが半分も入っている」と言うことも可能です。
③さらには、「ボトルにワインが半分しか入っていない」という表現を思いついた方もおられるかもしれません。
ここでのポイントは、目の前の現実が同じであったとしても、複数のことばで表現することができる、ということです。
例えば、前の晩にたくさんワインを飲んだことを覚えており、ボトルにはもうほとんど残っていないだろうと考えていたとすれば、半分残っていたワインを見て「半分も入っている!」と言うかもしれません。
一方、未開封のまま置いていたワインを、家族の誰かが勝手に開けて半分飲んでいたとしたら、残ったワインを見て「半分しか入っていない……」と言うことになるでしょう。
このように、同じ現実(=ボトルにワインが半分入っている)であっても、話し手の状況が異なれば、違うことばが用いられるのです。
まとめ
これを「認識」という表現で説明したのが、「ことばは認識を反映する」というものです。目の前の現実をどのように見ているか、その「ものの見方」がことばに反映されているということです。
この「ことばは認識を反映する」ということを、次回は「蛍光ペン」のたとえを用いて説明していきますね。
夏休みの宿題や研究課題にもシリーズに分けて役に立てるように頑張っていきますね!